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吉野秀夫のサイト



 最終更新日 2012/01/09 ⓒ吉野秀夫

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 去る12月3日(土)千葉市民会館の小ホールにおいて「2011ちば歴史フォーラム」が開催されました。当日のテーマは「オーロラの出現と古代千葉町の復元」と題するものでした。プロローグは、大川義行さん(劇作家・劇団ルネッサンス主宰者)と関真亜子さん(劇団ルネッサンスのRiseメンバー)が務めて下さり、特に関真亜子さんは「菅原孝標女」の役柄をご披露して下さいました。この劇団ルネッサンスは千葉市を中心に活躍されています。「2011ちば歴史フォーラム」の会長は、千葉氏37代目と伺いましたが千葉滋胤さん(千葉県社会福祉協議会の会長)です。当日は開会冒頭でご挨拶をなされました。私は、ここにお招きを頂き、約90分の時間を頂き、「更級日記と池田の池」のお話しをさせていただきました。

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20111203-006.jpg 私のお話は、以下に載せました『君待橋物語のリメイク』『更級日記の足跡(池田郷編)』『更級日記と池田の池』の3冊に亘る概要についてお話しさせて頂きました。
■「羽衣公園」と「羽衣の松」
 千葉県庁の一角に「羽衣公園」という小さな広場があり、そこに「羽衣の松」が植えられている。脇にある高札には「むかし、千葉の亥鼻城下に千葉の蓮の花の咲きほこる池田の池という美しい池があり、その周辺は蓮の花盛りのころには、多くの見物人でにぎわっておりました。いつのころから静まりかえった夜半になると、ここに天女が舞いおり、かたわらの松の枝に羽衣を掛け、蓮の花の美しさに見入っていたという……」と「羽衣伝承」と「千葉氏」との関係などが記されている。
 「池田の池・復元研究会」が、「池田の池」の環境復元を試みる総合科学的な視点からの研究を行った。地面のボーリング掘削を、地表面より完新統のオールコア・サンプルを採取、地層堆積構造の解析、古地磁気化石の分析、貝化石分析、珪藻化石の分析、花粉分析、プラントオパールの分析など、まさに画期的なプロジェクトが立ち上がり調査された。本県において、自然科学と人文社会学が協同して取り組んだ初のケースで画期的学術的作業だったと思う。
 特に花粉分析(千葉県立中央博物館・奥田昌明〈上席研究員〉の研究)の結果、都川周辺の景観環境の変遷は縄文時代晩期から弥生時代にかけて、台地上ではカシ類を中心とする照葉樹林が広く成立していた。だが、約1500年前いわゆる古墳時代に人間の定住に伴う火入れ(焼畑)により自然林は急激に開拓され、アカマツの二次林に置き換わった。即ち、大地の上では蕎麦が栽培され、畑の周辺にはヨモギ類、ナデシコ類、アブラナ類などの耕作雑草が生育。菅原孝標女が、千葉市を通過した西暦1020年には、花粉データによれば、カシ類の自然林が開拓され、アカマツ林のみが点在する開けた景観であったと推定された。千年前の景観は、馬の背のような砂州の微高地に東海道が通り、松林が点在していたことが科学的に裏付けられた。それは「羽衣の松」の原風景でもある。
■千葉氏と「羽衣伝承」
 下界に降りてきた女が男に羽衣を奪われて妻となる──これが羽衣伝承である。
 そのような筋立ての羽衣伝承は様々な類型をもって全国各地に分布している。「天人女房」の伝承は、一説では日本全国に300を超える数がある。房総羽衣伝承の研究は極めて僅かだが、論文「千葉一族の羽衣伝承」(高森智子氏)は、客観的な分析をされた。高森氏は、千葉一族の羽衣伝承を「房総伝説圏」と括り、他の伝説圏とは異なる特異な伝承であると指摘している。
 その研究を引用する──房総羽衣伝承が12の史料で確認できるが、例外なく千葉一族に関係した人物と結びつく特異な伝承である。天女を妻とした人物として6人の名前が出てくる。房総の羽衣伝承は『総州久留里軍紀』が初出、それは17世紀の中頃。『源平闘諍録』(14世紀初頭に成立)には、将門と天女の婚姻を語る伝承について何も触れられていない。だが、17世紀後半に書かれた『総州久留里軍紀』には、書かれているのだ。その事情は何か。徳川幕府が、大名や旗本に家系図や由緒書を提出させたことに起因──と高森氏は考察。これは慧眼である。全国で300を超える「羽衣伝承」は、古くは各地の「風土記」や「風土記逸文」の中に散見される。ところが、17世紀後半に初出となると、時代は既に江戸時代。
 即ち、江戸時代のお家再興騒動の産物と申したら語弊があるが、出自=自家高揚のための伝承がどうしても必要とされ、その手段として千葉の亥鼻近傍に古くから伝わる天女伝説を最大限に生かしたのではと思う。──「天女と地上の男の結婚」という出来事の不正確さは、人々が普段から目にすることの出来る『シンボルとしての松』を証拠物件とすることで、千葉氏の始祖譚は強固に補強された。やはり、池田郷の地には、往古から「松」と「池」と「天女」に関わる基層的な伝承が存在していたのだと思われる。それは、千葉寺縁起や「坂東観音霊場記」から見えてくる──「池田の池」と「遊女」と「オーロラ」の3つ物語である。
■房総半島の成り立ちと「池田の池」
 千葉県は“石なし県”である。何十万年という悠久の昔、千葉の地は古関東深海盆という海の底にあり、何万年も何十万年も陸からの泥砂を底に貯めこんできた。やがて地殻変動によって地層が隆起、ついに海面から顔を出して房総半島となった。この古深海盆の真上に位置する「池田郷」では、地表から約2千数百㍍まで掘り下げなければ石材は手に入らない。従って、堤防や堰堤は石材ではなく、土を固めて造られたであろう。それゆえ、目に見える遺構は何も残っていない。こうした生い立ちを持つ「池田の池」なれど、奈良・平安の時代を生きた人々の努力の証しは、形を変え、地下に眠る遺構として、また、恐れ、尊び、喜び、哀しみの記憶を刻み込んだ地名として、今なお各地に残っている。明治22年の市町村制発足時に記録された「大日本下総国千葉町字限繪図」との史料に記されている。
■「更級日記」と池田郷
 今から千年前の平安時代。一人の女性が、その半生を「日記風」に書き残した。それが「更級日記」である。作者は菅原孝標女。紫式部の「源氏物語」や清少納言の「枕草子」が世に出てから、約四十年後に書かれた。そこには僅かな文字数ながら上総国・下総国のことが書かれた唯一とも言うべき貴重な文献史料だ。日記には、京に帰還する旅の初日に、霖雨か雨台風による溢流で「いかた…という地に2日間足止めされた」旨がリアルに記され、その足止めの場所は「池田郷」。霖雨か台風の増水で溢れたのは「池田の池」と思われる。時期的には中秋の名月の頃、或いは大潮の満潮と重なったかも知れぬ。
 その「池田の池」は、現在の千葉市の中心市街地の一角にある亥鼻山に隣り合わせていた──18世紀の複数の史料には「大いなる池」の存在を「往古の伝承」として綴られた。これは、江戸時代には「池田の池」が消滅していた証しでもある。
■霖雨の激浪に散った「君待橋悲恋物語」
 千葉市中央区に「君待橋」という「橋」が現存する。その近くに「君待橋苑」という小さな公園がある。先代の「君待橋」の跡地が、記念公園となって残された。この「君待橋」には3つの物語が伝えられている。
 1つは、この橋のたもとで千葉常胤一族が源頼朝を出迎えたという伝承。
 2つには、平安の貴公子・藤原實方が陸奥国の国司として赴任する途中(西暦995年)に下総国に到来、この君待橋の由来を里人から聞き、
     「寒川や 袖師が浦に 立つ煙 君を待つ橋 身にぞ知らるゝ」
と詠ったという伝承。
 3つに、時代不詳だが、美女と契り深い長洲の情人との悲恋物語──霖雨の濁浪の旋渦が橋を流し悄然と泣き悲しむ美人の情に青春の血を湧かして激浪漲る川を渉ろうとし誤って浪の雫に捕られた情人。これに心決して情人を追い、あらた若き命を寒川の泡沫に委ねた美女──その散り行く悲恋の恐ろしい物語を永く後の世に伝えんと、後人が橋を「君待橋」と名づけたという伝承。
 1つ目の伝承の橋はさて置き、2つ目、3つ目の伝承の君待橋の場所は、現在の吾妻橋あたりと考えている。
 2つ目の伝承である藤原實方は東海道を下り、駿河国そして武蔵国を経て下総国入りして、ここ「君待橋」を渡り、上総国の国司である藤原長能の館に向かったようだ。それが西暦995年。それから25年の後の西暦1020年に「更級日記」の菅原孝標女一行も、この「君待橋」を渡ったことになる。
■「池田の池」は律令制下の灌漑用溜池
 「池田の池」は、律令制による班田収受制度が施行される過程で灌漑用溜池として築造された。溜池の規模は後の拡大があったとしても、初期の築造時期は8世紀前半と推定される。わが国の近代以前の産業の中心は農業にあり、その農業の中心は水稲耕作にあったことは否めない。この水稲耕作を決定づけるのが灌漑用水であり、特に保水力の弱い沖積低地での水稲耕作にあって、水田灌漑用の溜池は絶対に欠かせぬ存在であった。
 古代国家は、大化改新により、それまで豪族の私有下にあった土地について、公地公民たることを標榜し国家的支配下に置いた。その支配をより強固にと、耕地へ導水される灌漑用水を国家の支配管理下に置き、溜池の整備を国家的プロジェクトとして各地で展開した。そのひとつが「池田の池」であった。
■行基菩薩の足跡と「大いなる池」と「夜半の光明」
 千葉寺縁起には「元明天皇の清世、行基菩薩諸国遊化の際、當地池田の郷を通る時、池中に千葉青蓮華一莖二花、大さ車輪の如くにして、金色の光明を放つあるを見、遂に、此邊に一宿す…」とあり、また18世紀の「お寺参りガイドブック」といえる『坂東観音霊場記』には「天平2年秋8月、行基大士武蔵の国を経て、当国の海辺を過ぎ玉う。前途海を去ること遠からずして、池田の郷に大いなる池あり。大士池の中を臨み玉えば、水金色にして栴檀の香あり。いよいよ視るに中央に雲気集まり…」との描写がある。この描写に当てはまる自然現象ありとすれば、それは「オーロラ出現」に他ならない。その「オーロラ」を擬人化したとすると、それは「羽衣天女」である。行基は、それを観音菩薩の出現と見たわけである。この8世紀という時代、池田郷の天空にオーロラが出現した可能性は極めて大である。
■「池田の池」の終焉と君待橋の悲恋物語の関係性
 現存しない「池田の池」は、いつの時代に消滅したのだろうか。その問いに答えるのは、極めて困難である。目下、唯一の回答を持っているのは「花粉分析」から得られた結果である。千葉県立中央博物館の「自然誌研究報告」(第11巻第2号)に「千葉市中央区都川流域(旧池田郷)における過去4千年間の花粉組成と古環境」との論文の「結論」の項に「花粉粒を多く含んだ有機質シルトの堆積は1500年前以降も安定して続いたことから、静水環境を含んだ水場(池田の池)は、道場南の周辺において、少なくとも平安時代末期まで持続していたと考えられる」と明記している。平安時代末期とは、平家滅亡が1185年、鎌倉幕府樹立が1192年であるから、それ以前の頃という計算になる。
 要するに、菅原孝標女の帰郷の旅路では「池田の池」は存在していた。
 その後、約100年を経た頃に消滅を…。千葉常重が亥鼻山の館に入場したのが1126年とされるが、その時点で「大いなる池」は既に消滅していたのであろう。どうして…消滅したのか。その原因は…。
 それは、前代未聞の雨台風によってか、あるいは霖雨による越流での大崩壊か、それとも地方豪族の復興により荘園制が再び進み、班田収受の制度が潰えた結果によるのか…、今となっては、それを知る手がかりは何もない。
 とにかく「池田の池」堰堤の大崩壊で、君待橋も一瞬にして流されたであろう。おそらく、その際には、現在の千葉県庁や裁判所あたり一帯は、地面がえぐられ、削り取られ、すべてが海へと流されてしまったに違いない。
 その悪夢のような大洪水の出来事を、教訓として後生の人々に伝えんと、「君待橋」における若き男女の悲恋物語に象徴させ、何百年間も口承の形で語り継がれてきたのかも知れない。



『君待橋物語のリメイク』82頁LinkIcon

『「更級日記」の足跡(池田郷編第2版)』 126頁LinkIcon

最新著書 ……… 『「更級日記」と池田の池(第2版)』 209頁LinkIcon


このサイトで一貫して取り上げてまいりましたテーマですが、2011/10/12日付の「毎日新聞・千葉版」の「ちばみなと研究所」にて「『池田の池』と『羽衣の松』」と題した特集記事が載りました。
新聞記事をお読みになる場合は、画面をクリックすると多少大きくなります。

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  •  私たちの住むこの地球。地軸としての北極と南極とは別に、地磁気の北極と南極があり、方位磁石はN極を指す針を赤色にします。この地磁気の北極と南極は逆転していた時代があります。今は方位磁石のN極は地軸の北極を指します。ですが約80万年前は磁石のN極は南を指していました。その証である古地磁気の化石を市原市田淵白尾の養老川沿いの断層の露頭面に見ることができます。「この地球上でイタリアに一箇所、日本では市原市のこの場所だ」と専門家はいいます。東京の明治神宮御苑の「清正井」以上に、地球の地磁気が逆転する模様を連続して地層に残しているこの断層露頭面は自分のモチベーションを「チェンジ」させる切っ掛けづくりの最適なパワースポットです。
  •  この新しい千葉のパワースポットに関する情報は時々刻々と追加されております。
  • 去る1月20日の「朝日新聞」(ちば版)に「房総半島を地層遺産に」と題する大きな記事が載りました(下の写真)。
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  • また1月21日の「東京新聞」夕刊1面には、1月15日に、この田淵の地層のある市原市で開催された「シンポジウム」の様子を報道した9段抜きの大きな記事が載りました(下の写真)
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  •  より詳しくお知りになりたい場合は、私のブログ「吉野秀夫の千葉県政ブログ」の「千葉のパワースポット」のサイトでご覧頂けます。
  •  以下は、地球の地磁気が逆転していた時代の古地磁気化石が目に見える場所に行ってきました時の写真記録です。場所は、千葉県市原市田淵の養老川沿岸です。

 今年(2010)の8月に、この「地磁気逆転期の地層」(市原市田淵の養老川の側壁露頭)を多くの方々が見学できるように案内標識を設置しようということとなり、「千葉県深海盆ジオパーク推進協議会」の楡井久会長(茨城大学名誉教授)や協議会のメンバーと地元の田淵町会の会長・副会長さんを始め沢山の皆さんがボランティアで奉仕して下さいました。
 その様子を動画でどうぞ。




さて、次に「地磁気逆転期の地層」について少しずつ解説しましょう。

 下の写真で「白尾火山灰層」として↑印で示した部分には約2〜3センチの白い火山灰の層があります。この火山灰は木曽の御嶽山(正式には古御嶽山)が78万年前に噴火した時に飛来した火山灰であることが既に特定されております。
 その頃は、この一帯というより房総半島は海の底でした。ちょうど宮城県の太平洋岸に大陸棚が存在するのと同様に、房総半島は海中の大陸棚だったわけです。そこに、木曽の古御嶽山の火山噴火で飛来した火山灰が、海の底に沈殿・堆積した地層です。専門用語では海成層と呼ばれております。

 専門家の説明によりますと、その火山灰層のちょっと下の部分の古地磁気化石’(写真で緑色のラベルで表示してある地層)を分析しますと、化石の中に含まれている磁化された鉄分は、現在と同じようにN極が地軸の北極を向いております。さらに、その下の古地磁気化石(写真で黄色のラベルで表示している地層)を分析しますと、N極は赤道の方向を向いたまま化石化しているそうです。さらに下の古地磁気化石(写真で赤色のラベルで表示してある地層)ではN極は南極の方向を向いているとのことでした。これが、地球の磁気の逆転の証拠品でもあります。

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 この白い地層部分(白いといっても多少茶色がかっていました)が古御嶽山の噴火で飛来した火山灰の堆積層です。厚みは2〜3センチでした。今から約78万年前のことだそうです。この白尾火山灰層の存在で、地球の地磁気逆転期の年代を特定することができたのです。

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 この赤いタグの部分の地層が、地球の地磁気が現在と真逆だった時代の地層です。仮に、この時代に人が生きていて、方位磁石を持っていたとしたら、方位磁石の赤い針は、北ではなく、南を指し示していたことでしょう。地球が誕生して46億年の歴史があるそうです。その気の遠くなるような時間の中で,地磁気は9回ほど逆転したと聞きました。不思議な不思議なお話でした。

その逆転の古地磁気化石が包含された地層に手をかざし私(吉野秀夫)。その私のモチベーションは大いに高まったような気持ちになりました。そして、何やら男前もあがったような感じが……それは錯覚でしょうか。

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 こんな素晴らしい景観です。地球の悠久の歴史を一枚の絵にしたようなシチュエーションでした。この光景に接し、地球の地磁気が逆転した地層に接すれば、自然や大地の秘めたるエネルギーをわが身に取り込み……“負けてたまるか!がんばるぞ!”との気分が一新するような気がいたしました。これぞ、千葉県の新たなパワースポットと思います。